リハビリテーション

10.社会的適応能力の定義と評価と治療

2019年1月31日

今回は作業療法士の定義の中に出てくる「社会的適応能力」についてです。

 

「社会に適応するってなんとなくわかる気がするけど、結局よくわからない」

 

って思っていませんか?

 

改めて社会的適応能力について調べると、便利であると同時に非常に難しい言葉であることがわかります。

 

  • 社会に適応するってどういうこと?
  • どうなったら社会に適応したと言えるの?

 

この記事ではその疑問が解決します。

 

それでいってみましょう。

 

この記事を書いている私は

10年以上作業療法士として働いています。

経験した分野は亜急性期、一般、回復期、療養、訪問です。

複数の学会発表経験あり。

病院や施設での複数の公演経験あり。

 

本記事の流れ

  • 社会的適応能力の定義
  • まずは作業療法士の定義を振り返り
  • 「社会的適応能力」の言葉を分解して考える
  • 私が考える「社会的適応能力の定義」
  • 国民の三大義務から考える「社会的適応能力」
  • 重度の認知症や植物状態の人にとっての社会適応とはなにか
  • これって社会に適応してるっていえる?
  • 社会的適応能力の評価と治療
  • まとめ

 

 

社会的適応能力の定義

今回も早速結論からいいます。

 

社会的適応能力とは明確な定義はなく、私個人が現在たどり着いている定義になりますが、

 

「自分が所属する社会で、貢献感を感じることができる」

 

です。

 

この段階では抽象度が高く、意味がわかるようでわからないと思います。

 

しっかりと深堀りして解説していきますので、ぜひ最後まで読んでください。

 

 

まずは作業療法士の定義を振り返り

 

【理学療法士・作業療法士法 1965年】
作業療法士とは、身体的または精神的に障害のある者に対して、主としてその応用的動作能力または社会的適応能力の回復を図るため、手芸、工芸その他の作業を行わせることをいう

 

これを【対象】【目的】【手段】に分けてみましょう。

 

【対象者】身体的または精神的に障害のある者
【目的】応用的動作能力または社会的適応能力の回復
【手段】手芸、工芸その他の作業

となります。

 

法律から読み解くと、「社会的適応能力の回復」は「精神的に障害のある者」に対してかかっているのではないかと考えられます。
私の周りにはあまりいませんでしたが、精神科に勤めている作業療法士だと問題点に「社会的適応能力低下」や解決策として「社会的適応能力訓練」という言葉を使うのかもしれません。

 

しかし、しっかりと社会的適応能力とは何なのかを把握しておかなければ、安易に使ってはいけないと思うのです。

 

教科書を開いてもググっても社会的適応能力の明確な定義が見つからないので、社会的適応能力の言葉を分解して考えていきます。

 

「社会的適応能力」の言葉を分解して考える

まずは「社会」について

 

社会(しゃかい)は、人間と人間のあらゆる関係を指す[1]
社会の範囲は非常に幅広く、単一の組織や結社などの部分社会から国民を包括する全体社会まで様々である。社会の複雑で多様な行為や構造を研究する社会科学では人口政治経済軍事文化技術思想などの観点から社会を観察する。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 

次に「適応」について

 

心理学における適応とは、一般的な社会生活を問題なく送れること。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 

適応については色々なとらえ方があるようですが、一番しっくりくるものを抜粋しました。

 

これらをくっつけて考えると、社会的適応とは「一般的な人間と人間の関係を築き生活できること」のような捉え方になるかと思います。

 

問題は「一般的な」という言葉です。何を持って一般的と判断するのか。

 

非常に難しい問題です。

 

ある人にとっては一般的な人間関係でも、またある人にとってはそんな人間関係は一般的ではないと捉えるかもしれません。

 

「一般的」という言葉は、おそらく適切ではありません。

 

一般的という、各々の価値観で変わってしまいそうな文言を定義に使うわけには行きません。

 

別の視点で考えていきます。

 

私が考える「社会的適応能力の定義」

 

色々深堀りして考えましたが、簡潔に考えることにしました。

 

私にとって社会に適応するとは

 

『自分が所属する社会で、貢献感を感じることができる』

 

です。

 

詳しく説明します。

 

まずは「自分が所属する社会」についてです。

 

社会の最小単位は、わたしとあなた、つまり2人の人間がいれば社会は成り立ちます。

 

人数が増えても社会は社会です。

 

友人、家族、仲間、同僚、会社、地域、国家

 

そのどれもが社会です。

 

自分が所属する社会は1つではありません。

 

家族という社会に所属する自分もいれば、日本という国家に所属する自分もいます。

 

社会という言葉をどのレベルで捉えるか次第です。

 

次に「貢献感を感じることができる」についてです。

 

ここはあくまでも主観です。

 

主観であることが非常に重要です。

 

社会に適応できているかどうかは、他人が判断するものではないからです。

 

そもそもどうやって社会に適応できていると他人が判断できるでしょうか。

 

「あの人は集団生活の中でも特に問題を起こさないから社会に適応できている?」

→本当は自分の意見を押し殺して苦しいかもしれませんよ。

 

「あの人は社長だから社会的に成功しているし、社会に適応できている」

→家庭という社会の中では、うまく行っていないかもしれませんよ。

 

社会的適応とはやはり他人が評価できるようなものではないと思うのです。

 

あくまで主観。

 

「自分がどれだけその社会に貢献できているかを感じられるかどうか」

 

これが全てです。

 

自分は親友と思っていても、相手がどう思っているかなんてわかりません。

 

ですが、自分が親友として友達に貢献しているという実感があれば、それはもう社会に適応しています。

 

家族であれば、家庭に貢献している実感がある。

 

仕事であれば、会社に貢献している実感がある。

 

繰り返しになりますが、注意しなければならないのは他人の評価による実感ではないということです。

 

上司から認められたから、自分の社会的適応が実感できるというわけではありません。

 

承認欲求による実感ではだめです。

 

「相手が承認してくれれば社会に適応できている、承認してくれなければ社会に適応できていない」

 

なんて考えてはだめです。

 

その考えでは自分の考えは押し殺し、八方美人になることが一番社会に適応していることになるからです。

 

自分が正しいと思ったことをして、貢献できていると実感があれば、それはすでに社会できています。

 

自己中心的に聞こえるかもしれませんが、基本的に日本人は相手の顔色をうかがい過ぎだと思うのです。

 

相手に嫌われたくないがために、自分を押し殺して、作り笑顔で対応する。

 

健康的などころか、こんなことを続けていたら病んでしまいます。

 

「嫌われてもいいから自分の思ったことをやろう」

 

くらいが丁度いいです。もちろん不必要に相手を傷つけたり、犯罪を犯していいというわけではありません。

 

相手の顔色をうかがうことが、自分の行動や言動の中心にあってはならないということです。

 

相手が自分に何をしてくれるかではなく、自分が相手に何をできるかを考え、実践する

 

これが重要です。

 

なので私が考える社会的適応の定義は

 

「自分が所属する社会で貢献感を感じることができる」

 

です。

 

なので社会的適応の評価も非常にシンプルです。

 

「あなたは自分が所属する社会で、貢献感を感じることができていますか」

 

と問うだけです。

 

Yesであれば、社会的適応能力は問題なし

Noであれば、社会的適応能力に問題あり

 

非常にシンプルです。

 

一応わかりやすいように、「自分が所属する社会」の部分は具体的に変えて

 

「家族の中であなたは貢献感を感じることができていますが」

「会社の中で貢献感を感じることができていますか」

 

と聞くほうがベストでしょう。

 

では、社会のレベルをどんどん大きくしていき、国家のレベルではどうなるか考えてみましょう。

 

 

国民の三大義務から考える「社会的適応能力」

 

国民の三大義務(こくみんのさんだいぎむ)とは、日本国憲法に定められた「教育の義務26条2項)」「勤労の義務27条1項)」「納税の義務30条)」の日本国民の三つの義務を指す[1][2][3]
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 

ちなみに三大義務を少し掘り下げると

 

教育の義務:親が子供たちに教育を受けさせる義務。子供が教育を受ける義務ではない。

勤労の義務:日本の社会保障を受けるためには働きなさい、という義務。

納税の義務:この義務に関しては、納税することで国民の意思を主張する権利と考えています。

 

義務を果たしていることで、国家における貢献感を実感することもあるかもしれません。

 

しかし、これは相手の顔色を伺っていることと変わりません。

 

義務を果たしている結果、貢献感を感じているのではなく、

 

自分の貢献感を追求した結果、義務を果たしていることにつながる

 

事はあるでしょう。

 

あくまでも主観で考えてください。

 

自分が最も貢献感を感じることができることを続けていたら、国家に貢献していた。

 

すごいと思いません?

 

年のため、もう一度いますが、自己中心的であれということではありません。

 

相手が自分に何をしてくれるかではなく、自分が相手に何をできるかを考え、実践する

 

です。

 

重度の認知症や植物状態の人にとっての社会的適応とは何か

 

リハビリの仕事をしていると、このようなジレンマにぶつかることがあります。

 

重度の認知症の人や植物状態の人に「あなたが所属する社会で、貢献感を感じていますか?」と聞いても、明確な返事は帰ってこないでしょう。

 

主観で捉えるのは難しいかもしれません。

 

そこで私が実践しているのが、「行為」のレベルで役割を捉えるのではなく、「存在」のレベルで役割を捉えることです。

 

「なにをしたか」という行為の次元で捉えるのではなく、存在しているその事実に目を向けます。

 

わかりにくいと思うので実例を出します。

 

想像してみてください。

 

自分の母親が交通事故に会い、生死をさまよっている。

 

その時あなたはお母様が「なにをしたか」など考えません。

 

生きているだけで嬉しい、今日の命がつながってくれただけで嬉しい。

 

そう感じるはずです。

 

「存在」のレベルを捉えるとはそういうことです。

 

生きているただそれだけで、あなたや家族の心の支えという役割があるのです。

 

これを聞くと「生きてるだけで素晴らしいという自己満足でしょ」と思う方もいるかも知れませんが、それは違います。

 

家族に聞けば「この方が生きているだけで、私達は希望を持って生きることができている」

 

「自分の病気を通して、周りになにか伝えようとしているのではないか」

 

というような意見をいただくこともあるかもしれません。

 

しかし、明確に、自己満足ではないと言える実例があります。それは

 

「あなた(患者さん・利用者さん)という存在がいるから、私は作業療法士として今ここに存在できている」

 

ことです。

 

これは誰にも変えられない事実です。

 

本人がどう考えているかは定かではありません。

 

それでも私は

 

「私が作業療法士として存在できているのはあなたのおかげです。ありがとうございます」

「今日も勉強させていただきました。ありがとうございます」

 

と伝えています。

 

命をつなぎとめている母親が存在してくれているだけで希望がもてるように、目の前のその存在に感謝を伝えるのです。

 

 

これって社会に適応してるといえる?

 

私が考える社会的適応能力とは「自分が所属する社会で、貢献感を感じることができる」です。

 

しかし、どの社会に着目するかによって適応できているのか、できていないのかの判断がかなり変わってきます。

 

「全く家庭を顧みず、仕事である研究に没頭した結果、ノーベル賞を受賞した」

 

という人がいたとします。

 

この場合、研究者としての社会的適応能力はずば抜けていますが、家庭に所属する夫としての社会的適応能力は欠如しているといえるかもしれません。

 

しかし、見方によっては仕事に熱中しており、稼ぎが大きければ、妻や子どもの満足度は高く安心して生活できているかもしれませんし、働いている姿を見せることが子育てに良い影響を与える可能性もあります。

 

評価方法は変わらず、本人が仕事においても家庭においても貢献感を感じることができているかどうかです。

 

 

「自閉症があり、対人関係を築くことは苦手だが、圧倒的な絵の才能がある」

 

という人がいた場合、学校などの集団の中での社会的適応能力は低いと判断されがちですが、絵画の分野では社会的な評価を受け、圧倒的な社会的適応能力があり、そのことで学校でも一目置かれているかもしれません。

 

その場合も評価方法は変わらず、学校においてもアートの世界においても、貢献感を感じることができているかどうかです。

 

社会は1つではありません。

 

目まぐるしく変化する社会を捉え、その中で貢献感を感じることができているかどうか?

 

広い視野が必要です。

 

 

問題点:社会的適応能力の低下
解決策:社会的適応能力訓練

 

と安易に考えるのは危険です。

 

その方にとっての社会とはなにか、なにをもって社会に適応したと判断するのか、可能性のある仕事は何か、どのような役割が適合するのかなどの非常に深く、難しい考察が必要です。

 

少なくとも「友人」「家族」「地域」「仕事」の4つの側面に関しては考察するべきです。

 

社会的適応能力とは簡単な言葉のようで、安易に使用すると視野が狭くなってしまうかもしれない危険な言葉でもあるように感じます。その点に考慮したうえで、「社会的適応能力」という言葉を使いましょう。

 

社会的適応能力の評価と治療

 

先述したとおり、私が考える社会的適応の定義は「自分が所属する社会で、貢献感を感じることができる」です。

 

そしてその評価は「あなたが所属する社会で、貢献感を感じることができていますか?」と問うことです。

 

もし貢献感を感じることができていなかったら、リハビリとしての治療を考えます。

 

手順は以下のとおりです。

  1. どのレベルの社会への貢献感が欠如しているのかを一緒に考える
  2. その社会だけに囚われすぎていないかを一緒に考える(会社という社会にとらわれるぎて思い悩むより、もっと別の、例えば家族としての社会のことを先に考えたほうがいいかもしれない)
  3. 貢献感を得るための社会が決まったら、なにを持って貢献感を感じることができるかを考える
  4. 考えたことを実践する(私が一番効果的と感じるのは、その社会に向けて言葉で感謝を伝えることです。)
  5. 貢献感を得ることができたかを再確認する

以上です。シンプルに書いていますが、これまた難しいんです。結局ひと目が気になったり、考えがコロコロ変わったり、逆に猜疑感を感じてしまったり、、、

 

簡単ではありません。そもそも自分だって貢献感を感じていないこともあります。

 

昨日は家族への貢献感を感じることができたが、今日はそうでもなかった。というように日によって違うこともあります。

 

一朝一夕には行かない、社会的適応能力というのは、それほどまでに難しい言葉なのです。

 

まとめ

 

今回は社会的適応能力について考えてきました。

 

私が考える社会的適応能力の定義は

 

「自分が所属する社会で、貢献感を感じることができる」

 

でした。

 

皆さんはどのように考えたでしょうか?

 

是非一度、深く考察してみてください。

 

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